※サノシノちゃんを初見の人にもわかるように現パロにしてみた。
前社長の喫煙スペースとして機能していた名残りで開放されている屋上は今日も貸切状態。辺りのビル群の中でも極めて背の低いこのオンボロビル、働いている人の数がまず少ないうえ高層の建物に囲まれて切り取られた狭い空以外に見るものもなく、昼食時でもない限り立ち寄る人はまずいない。少し休憩時間が遅くなればこの通り、独り占めできる。
例え束の間であっても、若い(子どもと称しても差し支えない)現社長に配慮して喫煙を我慢したとしても、無用な会話を避けられるのなら有り難い。最も
「サノ、いた!」
当然のように居場所を察知して乱入してくる同僚の存在がなければ、の話だが。返事をするのも、振り返るのすら億劫で黙って空を仰ぐ。今日はとても天気がいい。そんな空模様に似つかわしい呑気な笑顔で、彼女は俺の隣に並んだ。
「ご飯食べるの早すぎない? 少し目を離したらもういなくなってたし」
「用件は?」
「ないよ? 少しでも一緒にいたかっただけ」
あっ気らかんと言い放たれて、ため息を零すほかない。
「あと、私すごいことに気づいちゃったの!」
前置きでハードルを上げれば上げるほど、大した話ではないのが定石であって。
「えっとね、」
スーハ―。大きく深呼吸を挟んで、彼女は言う。
「私、サノのことが好きだよ」
風の音さえもない閑静な空間の中、脈絡もないセリフは飛んできた。胸の前で両手の指先を合わせて、はにかみ見上げる様子は実年齢より幼く映る。
「これで、ちょうど100回目の告白なんだ」
「わざわざ数えるのに使った脳を仕事に回してくれ」
入社時期が同じだったためか、ペアを組まされることも度々ある同僚へ素っ気なく吐き捨てた。
「むう…100回目なのに、あいかわらずの反応」
「こうも繰り返されると価値が下がる」
「それはわからなくもないけど、こう…『好きっ!』って気持ちが止まらないというか。胸の中に留めておくと息苦しいって思うし」
「24にもなってそのポエミーな思考はどうなんだ」
「ひどい! でもそんなところも好き!」
「101回目」
『記念』はあっけなく終了した。
「あっ! と、とにかく! 今日は記念日です。おめでたい日なんだよ!」
「そこでささやかなプレゼントを差し出す、なんて粋な計らいができたらよかったな」
「はぅっ。あ、飴! 飴あるよ!」
言うが早いか、首から下げた社員証のポーチをひっくり返し、ファンシーな苺柄のキャンディーをふたつ、みっつと手のひらの上へと乗せる。
「はい、どうぞ」
右手を取られたかと思うと、それをぎゅっと握らされた。
「間に合わせで済ます程度か、お前の気持ちは」
「そんなことないよ!」
「じゃあ、1階のショップのコーヒー。ブラック。氷なし」
「パシリ!? ううう、でも行っちゃう!」
くるりと踵を返して、ヒールのあるパンプスを打ち鳴らして屋上を出ていく彼女をため息混じりに見送った。
「あの靴でよくもまあ、あれだけ走れるな」
あどけない言動に引っ張られて転ばないか一瞬心配になるものの、瞬時にその可能性を打ち消した。知りうる中で、彼女ほど身軽に動ける女性は他にいない。
「記憶はなくとも身体は覚えてる、か」
彼女は、違和感を覚えることはないのだろうか。いくら上下関係のゆるい会社だとはいえ、役職も年の差もある男性を苗字で呼び捨てにし、タメ口で当たり前のように隣へ並ぶことを。
ルーチンのように毎日『好き』だと口にしても、そのきっかけとなる出来事をまるで思い出せないことを。
動きづらいという理由で短くしていた髪は今、肩に付くほどまでに伸びた。身体のラインもわからなくなるような厚手のパンツスタイルの制服はあまりに色気がなさすぎて、そんな姿を見慣れていた分、ふわりと翻り揺れるフレアスカートを目で追うほどに、胸の奥がざわついてしまう。
「まったく、似合ってるよ」
自然と手は煙草のパッケージを探していて、禁煙中だったと失笑する。
おもむろに口へと放り込んだ飴玉はパッケージのデザインから連想される通り、甘ったるくてとても食べられるものではなかった。
「曲がりなりにも好きな相手なんだろ…嫌いなものくらい把握しておいてくれ」
奥歯で噛み締めて粉々にしてもなお、甘い。
「それも忘れたなら、告白する習慣も一緒に失っておいてよかったのに。いつまでもバカだな、シノは」
100回目? 少なくともその倍、俺は彼女に『好き』だと言われ続けている。
精神的なものから来る記憶障害だと医師は診断した。それだけのショックを与えたのは他ならぬ自分で、呑気な笑顔を目の当たりにすれば、欠如した思い出を蘇らせる気は微塵もなくなった。
何がきっかけで思い出すかわからないおかげで、俺は彼女の名前すら呼ぶことすら許されない。当然の報いだ。この程度で罪滅ぼしになるとは考えていないが、彼女の幸せを第一に願うくらいには、今も俺は――
「サノー!!!」
バアン! 鉄製の扉の鈍い音が思考を遮る。思わずこめかみに手を当てた。頭が痛い。
「買ってきたよっ」
褒めて! と言わんばかりにすばやくそばへと歩み寄って、頭を差し出してくる。後ろにぶんぶんとご機嫌に揺れる尻尾が見えてくるようだ。
「コーヒー代と釣り合うくらいのスイーツ、考えといて」
伸ばしたくなる手を制する代わりに、
「スイーツ?」
「帰りに奢ってやる」
せめて、このくらいなら許されるだろうか。
「そう長々と待ってやるつもりないから、残業はナシ。返事は?」
「わ、わかりましたっ! 絶対何がなんでも定時で上がる! デートのお誘いってことでいいんだよね!?」
飛び跳ねんばかりの勢いの彼女から、プラスチック製の容器に入ったコーヒーを取り上げた。このままでは、こぼして折角似合っている白いブラウスを汚してしまいかねない。
休憩の時間はそろそろ終わる。やる気を出せばその分空回る彼女のフォローで、午後は忙しくなりそうだ。
「でも、どういう心境の変化?」
「そうだな…」
背を向けて歩き出せば、彼女は当然のごとく後ろをついてくる。
「今日は、記念日なんだろ」
隠しきれず表情に滲みかねない今、向き合ってはならない。見せてはいけない。
俺から返すはずの『愛してる』を100回殺した、記念すべき一日に抱いた想いは、決して。